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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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新大陸西岸の巨大山脈

アンデス山脈

写真はボリビアの首都ラパス(スペイン語で平和の意)。
国名は、南米独立の英雄シモン・ボリーバルに由来しています。
かつては海に接する国でしたが、チリに沿岸部を占領され内陸国となってしまいました。
チリが縦長なのは、こんな理由もあったんです。

ラパスボリビアの人口比率は、ケチュア族や、アイマラ族などのインディヘナ(先住民)が55%、メスティーソ(混血)が32%。
チリは、スペイン系が75%、その他欧州系が20%を占めます。

ここでも、過ごしやすい沿岸部に入植者が暮らし、先住民が高地に追いやられる構図になっているんですね。

(クリストバル・コロンの勘違いによって付けられた、南米先住民を指すインディオという言葉は、蔑称の意味合いが強く、通常はインディヘナを使います。
響きが似ていますが、こちらはラテン語で先住民という意味です。)


ラパスは世界最高地にある首都で、標高は3600〜4200m。
(FIFAが国際試合を禁止にして話題になりましたね。)
航空機で訪れると、高度順応ができないので大変かもしれません。
空気が薄いと酒酔いしやすくなるので、そちらも注意が必要です。
覚醒作用による症状緩和で、高山病にはコカ茶が良いとされています。
コカインの原料にもなっているコカですが、アンデスでは広く栽培されているんですよ。

アンデスの街の多くは、谷に造られています。
谷間が中心地となり、山の上へ行くほど低所得者の暮らすエリアとなっています。
これは、高標高のアンデスならではの特徴で、空気の濃い低地ほど地価が高くなるからなんです。

上の写真で、街の後方に見えるのは、標高6400mのイリマニ山です。
高地ならではの光景で、この辺りで、雷を上から見ることができました。
(谷の上からの眺望は最高ですが、スラムを通ることになるので注意が必要です。
南米では、後ろから頚動脈を絞め、気絶させてから金品を奪う、首絞め強盗という手口の犯罪が多いんです。)


アンデス山脈アンデス山脈の東側はアマゾン熱帯雨林ですが、西側は乾燥地帯になっています。
しかし、アンデスの雪解け水により、水不足になることはありません。

また、海から霧がたちこめる為、沿岸部の一定の標高までは、霧の水分により、乾燥に強い植物が育っています。

南北7500kmに及ぶアンデス山脈ですが幅は狭く、特にチリ北部では平野部がなく、海岸からすぐ急斜面になっています。
ここを東西に移動すると、急激な標高の変化による気圧差で、ペットボトルなどはグチャグチャになります。
高地へ移動した際は、歯磨き粉にも気を付けなければなりません!
チューブの中の空気が膨張し、蓋を開けた瞬間に粉が飛び出して止らなくなるんです。


アンデスは、太平洋プレートと南米大陸がぶつかり隆起してできた山脈です。
その為、地震が多い地域でもあり、旅行中に、日本まで津波が届いた2001年のペルー沖地震に遭遇してしまいました。><
ヒマラヤ山脈と同じくかつては海。塩湖も多くあり、貝の化石も見つかります。
ビーグル号での航海中、ここを調査したチャールズ・ダーウィンは地質学原理に確信を持ち、それが進化論のきっかけになったそうです。


船長付きの神学者としてビークル号に乗船したダーウィンでしたが、皮肉にも進化論は、神が創造主ではないという学説。
進化論が世に認められると、敬虔なキリスト教徒であった船長のフィッツロイは、ダーウィンを航海に同行させたことを悔いて拳銃自殺したそうです。
ダーウィンは、南米西岸を北上する際に採集した複数の小鳥に、地域ごとの僅かな違いがあることに気づき、進化論に至ったそうです。
しかし、採集の記録を付けていなかったので、どの小鳥をどの地域で採集したか判らなくなっており、推測による部分も多かったようです。
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未開の土地の妙なもの

フマナ平原

リマから500km程南にある、200平方kmに渡る、砂漠地帯の大平原です。
この平原に、紀元前100〜紀元700年にかけて栄えたナスカ文化の遺物、ナスカの地上絵が存在します。


地上絵は、1930年代に、付近を飛行する航空機から度々、目撃されており、
その情報を元に、考古学者ポール・コソックによって調査が行なわれました。

しかし、地上絵の発見と前後して、北南米を縦断する道路、パンアメリカン・ハイウェイの建設が進んでおり、なんと、この道路が、地上絵の上に造られてしまいました。
危機にさらされた地上絵でしたが、ポール・コソックの研究を引き継いだ、マリア・ライヘ女史による呼びかけで、しだいに保護の声が高まり、地上絵の描かれているエリアへは立ち入り禁止となりました。
現在では、パンアメリカン・ハイウェイの路肩に建てられた、ミラドールという櫓から、平原へ立ち入ることなく、地上絵を見ることができます。


ナスカの地上絵地上絵の線は、幅30cm、深さ10cm程で、
車のわだち程度しかありません。
ナスカの大地は、白色の土の上を、太陽に焼かれた黒い石が覆っています。
その為、地表の黒い石を少し掘るだけで、白い線がくっきりと浮き出すのです。

この地域は降雨量が極端に少なく、
地上絵は、現代まで残ることができました。
しかし、山間部で降った大雨が洪水となって流れ込むことがあり、いくつかの地上絵は消えてしまっています。
以前の航空写真と比べると、地上絵は年々、確実に薄くなっていることがわかります。


有名な、一筆描きで描かれた動植物の地上絵は30個程あり、小さい物は約10m、大きな物になると300mを超えるそうです。
その周囲には、おびただしい数の幾何学模様も描かれており、中には、長さ15kmに及ぶ直線まであります。

この規模になると成層圏からでないと確認できず、その為、宇宙人が描いたという説まで唱えられました。
古代人に、優れた技術は無かったという思い込みで、一昔前は、エジプトのピラミッドにも宇宙人建造説がありましたね…。
しかし、無数の幾何学模様を目の当たりにすると、本当に宇宙人が描いたんじゃないかとさえ思えてきます。

現在、地上絵は、拡大法によって描かれたと考えられています。
これは、小さな絵の中心に杭を打ち、ロープで等倍する距離を測り、拡大した絵を描くというものです。
平原では、測量に使われたとみられる木杭も発見されているそうです。


ナスカの地上絵地上絵の目的については、これまでに、暦説、蜃気楼の水の貯水路説、気球で空から鑑賞していた説などがありました。

しかし、残念ながら、暦と幾何学模様は一致しておらず、また、ナスカでは蜃気楼も殆ど発生せず、
気球にいたっては、ナスカの繊維と土器で作成可能だったと検証されましたが、痕跡は何一つみつかっていません…。

地上絵の上で、雨乞いの儀式を行なった跡がみつかっており、現在では、儀式に使われたというのが、最も有力となっています。


2006年には、ナスカの北西に位置するナスカ台地に、新たな地上絵が発見されました。
後光が射した人の絵や、触覚のある人の絵などが、およそ100個。
これらは、従来の地上絵とは違い、一筆画きにはなっていません。
また、平原ではなく、台地の斜面に描かれており、地上からも確認することができます。

台地の頂上付近の岩場には、これと同じ絵の壁画も発見されました。
これらを調査した考古学チームによると、頂上付近では、神官によって宗教儀式が行なわれており、この儀式に使われた絵を、民にも見えるように拡大して、斜面に描いた物が、この地上絵なのだそうです。

これらの地上絵は、ナスカの地上絵よりも、100年程前に描かれていたそうで、ナスカの地上絵は、これらが変化した物なのかもしれませんね。


フマナ平原より、1000km程南のチリ北部にも、多くの地上絵が存在しています。
『奇妙な絵』というクエストの発見物にもなっていますね。
これらの地上絵は、目標物の無いアンデス山脈の荒野で、道標として斜面に描かれた物ではないかと考えられています。


ナスカ周辺には、墓や地下水路などの遺跡も多く見つかっています。
盗掘被害にあっており、状態は良くありませんが、墓からは、多くのミイラが発見されました。

いくつかのミイラの頭部には、長期間に渡って圧力をかけることで出来た変形が見られました。
ナスカ文化では、身分の高い人物、もしくは神官などが、神秘性を高める為に、頭の形を変形させるという習慣があったようです。
もしかしたら、タイの首長族のように、独特の美的感覚があったのかもしれませんね。

また、これとは別に、頭蓋骨に穴の開いたミイラも、いくつか見つかっています。
発見当初は、これが死因と考えられていましたが、後の調査により、
穴が開いた後も、それを塞ぐように骨が成長していたことがわかりました。
当時の戦は、スリング(投石器)や棍棒などの鈍器を武器としていた為、頭蓋骨内部に出血を起こすことが多かったようです。
頭蓋骨に開けられた穴は、これを取り除く医療行為だったのです。
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リマ

リマ

1535年に、イスパニアのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロによって建設された街。
アルマス広場を中心に、イベリア様式の街が築かれています。
ピサロによって、クスコから遷都されたリマは、現在に至るまでペルーの首都となっています。

リマの海岸線は、太平洋の荒波によって削られ、高さ100m程の切立った崖になっています。冬にはガルーアと呼ばれる海霧がたちこめ、写真のように空を覆いつくします。

リマ街は大きく分けると、旧市街のセントロ地区と、新市街のミラフローレス地区、サン・イシドロ地区からなります。

セントロ地区には、植民地時代の建造物が多く残り、世界遺産に登録されていますが、
治安の悪化により、街の中心地は新市街へと移行しつつあります。

景観を守る為、セントロ地区にある建物は黒が基調とされ、マクドナルドやKFCまで黒。
ストリートチルドレンが多く、KFCで食事をしていたら、残った骨をねだられるということがありました。
途上国の田舎を旅行していると、ローカルフード中心の食生活になってしまいます。
久しぶりの都会で、ちょっと贅沢をしてみましたが、場違いだったようです…。
ファーストフード店は、どの国でもほぼ同じ価格なので、物価の安い途上国では贅沢品なんです。


ピサロの棺セントロ地区の中心アルマス広場に面した場所に、カテドラルがあります。
このカテドラルには、ピサロのミイラが安置されており、棺を見学することもできます。

以前はスペインから贈られたピサロの騎馬像がカテドラル前に置かれていましたが、
インディヘナ(先住民)とメスティーソ(混血)の反発により、広場の反対側の隅に移されるということがありました。
征服者は、大航海時代から数百年経った現在でも、嫌われているようです。

広場の近くには宗教裁判所の跡もあります。
1570年から廃止される1820年までの250年間、異教徒は拷問により改宗を迫られ、あるいは殺されました。
現在は博物館として、当時の拷問器具と、拷問を再現した蝋人形により、裁判の凄惨さを伝えています。

考古学博物館や黄金博物館もあり、装身具、土器、ミイラ等が展示されています。
しかし、インカ時代の金の工芸品は、その殆どが溶かされた後、イスパニアに持ち去られており、ここに展示されているのはプレインカ時代の遺跡から出土した物でした。

市内や近郊には、プレインカ時代の遺跡がいくつかあります。
インカ帝国やアステカは、直接ヨーロッパと接触があったので有名ですが、時代的には新しい文化です。
『連綿と続く文化』というクエストにあるように、アンデス文明では、いくつもの国や文化が興っては亡び、または融合し、インカ帝国の文化は、そこから受け継がれてきたものなんですよ。
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スエズ

スエズ

スエズ運河は、近年になって造られたと思われがちですが、実は、古代エジプト中王国時代(約4000〜3500年前)には存在していたようです。
当時の運河は、運輸にも使われましたが、その規模から、主に灌漑用だったと考えられています。
そして、約2500年前、ペルシャ最大の版図を築いたダレイオス1世により整備され、海上交易に使用されるようになりました。
スエズ運河の建造は、砂との戦いだったそうです。砂に埋もれては掘り返したものの、
ローマ時代に、ついに放棄され、歴史から忘れさられたのです。

地中海と紅海の水位が違うと思われていたため、現代も古代も工事は躊躇されたそうですが、実際は水位に差はなく、パナマ運河と違いフラットな運河です。
古代ペルシャの時代に、水位の違いにまで考えが及んでいたとは驚かされますね。


スエズ運河現代版の運河には砂避けの土手くらいあるだろうと思いきや、柵すら無く、岸から水面までの高さも2m程度。川幅も思ったより細くて、拍子抜けしました。

運河の中程にあるイスマエレーヤという街から、地中海側の街ポートサイードまで、
運河に沿って列車が通っていたので、それに乗って運河観光と、運河の長さを体感してみました。

途中には、日本の技術協力により造られたスエズ運河橋を見ることができます。
スエズ運河に架かる橋は、この一本だけ。この橋はクフ王のピラミッドと同じ高さ140mで、橋脚はオベリスクに似せて造られています。

ポートサイードでは、無料の渡し舟が出ています。
渡し舟は、5隻程が同時に運行しており、それが引っ切りなしに往復しているのですが、移動手段はこの船しかない為、人と車が途切れることはありません。
アジア大陸とアフリカ大陸の境界は、スエズ運河。
この渡し舟が、アジアとアフリカを行き来していると思うと面白いですね。


地球温暖化により北極の氷が減少し、北極海の航行が現実味を帯びてきました。
スエズ運河に取って代わる日も近いかもしれませんね。


現代版の運河が開通してから33年後、なんと、この運河を通って、紅海の生物が東地中海に達していたことがわかりました。
運河の中ほどには、スエズ運河勅命クエストの発見物にもなっている塩湖『グレートビター湖』があり、これを越えなければなりません。
また、紅海と東地中海は、水温も塩分濃度も異なるというのに、生物の適応力や、生きる力というのは凄いですね。
幸い、この移動による、東地中海の生態系への影響は、無いのだそうです。
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水位計測器の地図

ナイロメーター

ナイロメーター写真は、ナイル川上流のアギルキア島にあるイシス神殿のナイロメーター。
古代エジプト・プトレマイオス朝(約2300〜2000年前)に作られた物です。
元々はフィラエ島にあった遺跡でしたが、アスワン・ダムの建造により一部が水没してしまい、アスワン・ハイ・ダムの建造を機に、アメリカの資金援助により移築されました。

写真ではわかりづらいですが、遺跡から地下へ階段が伸び、ナイル川に通じています。
侵食により消えてしまっていますが、かつては壁面に目盛りが彫られていました。


イシス神殿とアスワン・ダム後期に造られた物は形状が違い、ドーム状の建物の柱に目盛りが彫られています。

ダムの建造により洪水は無くなりましたが、現在でも水位観測には使用されているそうです。

観光地にある古代のナイロメーターには、
目盛りの数字が現代のアラビア語になっている物があるようです。
観光客寄せにレリーフを作り直したんでしょうね。^^;


日本では、算用数字のことをアラビア数字と言いますが、実は間違い。
アラビア語にはアラビア文字の数字があるのです。
アラビア語は右から左に書きますが、数字だけは左から右に書きます。
数字と単位とで書く方向が違うので、道路標識を読む時には注意が必要です。
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