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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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リマ

リマ

1535年に、イスパニアのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロによって建設された街。
アルマス広場を中心に、イベリア様式の街が築かれています。
ピサロによって、クスコから遷都されたリマは、現在に至るまでペルーの首都となっています。

リマの海岸線は、太平洋の荒波によって削られ、高さ100m程の切立った崖になっています。冬にはガルーアと呼ばれる海霧がたちこめ、写真のように空を覆いつくします。

リマ街は大きく分けると、旧市街のセントロ地区と、新市街のミラフローレス地区、サン・イシドロ地区からなります。

セントロ地区には、植民地時代の建造物が多く残り、世界遺産に登録されていますが、
治安の悪化により、街の中心地は新市街へと移行しつつあります。

景観を守る為、セントロ地区にある建物は黒が基調とされ、マクドナルドやKFCまで黒。
ストリートチルドレンが多く、KFCで食事をしていたら、残った骨をねだられるということがありました。
途上国の田舎を旅行していると、ローカルフード中心の食生活になってしまいます。
久しぶりの都会で、ちょっと贅沢をしてみましたが、場違いだったようです…。
ファーストフード店は、どの国でもほぼ同じ価格なので、物価の安い途上国では贅沢品なんです。


ピサロの棺セントロ地区の中心アルマス広場に面した場所に、カテドラルがあります。
このカテドラルには、ピサロのミイラが安置されており、棺を見学することもできます。

以前はスペインから贈られたピサロの騎馬像がカテドラル前に置かれていましたが、
インディヘナ(先住民)とメスティーソ(混血)の反発により、広場の反対側の隅に移されるということがありました。
征服者は、大航海時代から数百年経った現在でも、嫌われているようです。

広場の近くには宗教裁判所の跡もあります。
1570年から廃止される1820年までの250年間、異教徒は拷問により改宗を迫られ、あるいは殺されました。
現在は博物館として、当時の拷問器具と、拷問を再現した蝋人形により、裁判の凄惨さを伝えています。

考古学博物館や黄金博物館もあり、装身具、土器、ミイラ等が展示されています。
しかし、インカ時代の金の工芸品は、その殆どが溶かされた後、イスパニアに持ち去られており、ここに展示されているのはプレインカ時代の遺跡から出土した物でした。

市内や近郊には、プレインカ時代の遺跡がいくつかあります。
インカ帝国やアステカは、直接ヨーロッパと接触があったので有名ですが、時代的には新しい文化です。
『連綿と続く文化』というクエストにあるように、アンデス文明では、いくつもの国や文化が興っては亡び、または融合し、インカ帝国の文化は、そこから受け継がれてきたものなんですよ。
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スエズ

スエズ

スエズ運河は、近年になって造られたと思われがちですが、実は、古代エジプト中王国時代(約4000〜3500年前)には存在していたようです。
当時の運河は、運輸にも使われましたが、その規模から、主に灌漑用だったと考えられています。
そして、約2500年前、ペルシャ最大の版図を築いたダレイオス1世により整備され、海上交易に使用されるようになりました。
スエズ運河の建造は、砂との戦いだったそうです。砂に埋もれては掘り返したものの、
ローマ時代に、ついに放棄され、歴史から忘れさられたのです。

地中海と紅海の水位が違うと思われていたため、現代も古代も工事は躊躇されたそうですが、実際は水位に差はなく、パナマ運河と違いフラットな運河です。
古代ペルシャの時代に、水位の違いにまで考えが及んでいたとは驚かされますね。


スエズ運河現代版の運河には砂避けの土手くらいあるだろうと思いきや、柵すら無く、岸から水面までの高さも2m程度。川幅も思ったより細くて、拍子抜けしました。

運河の中程にあるイスマエレーヤという街から、地中海側の街ポートサイードまで、
運河に沿って列車が通っていたので、それに乗って運河観光と、運河の長さを体感してみました。

途中には、日本の技術協力により造られたスエズ運河橋を見ることができます。
スエズ運河に架かる橋は、この一本だけ。この橋はクフ王のピラミッドと同じ高さ140mで、橋脚はオベリスクに似せて造られています。

ポートサイードでは、無料の渡し舟が出ています。
渡し舟は、5隻程が同時に運行しており、それが引っ切りなしに往復しているのですが、移動手段はこの船しかない為、人と車が途切れることはありません。
アジア大陸とアフリカ大陸の境界は、スエズ運河。
この渡し舟が、アジアとアフリカを行き来していると思うと面白いですね。


地球温暖化により北極の氷が減少し、北極海の航行が現実味を帯びてきました。
スエズ運河に取って代わる日も近いかもしれませんね。


現代版の運河が開通してから33年後、なんと、この運河を通って、紅海の生物が東地中海に達していたことがわかりました。
運河の中ほどには、スエズ運河勅命クエストの発見物にもなっている塩湖『グレートビター湖』があり、これを越えなければなりません。
また、紅海と東地中海は、水温も塩分濃度も異なるというのに、生物の適応力や、生きる力というのは凄いですね。
幸い、この移動による、東地中海の生態系への影響は、無いのだそうです。
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カイロ

カイロ

オールド・カイロ写真は、オールド・カイロ地区。
イスラムの英雄サラディンの建設した城塞からの眺望です。

ここには、ナポレオンの占領の混乱に乗じ、オスマン朝から独立した、ムハンマド・アリの霊廟も建てられています。

ムハンマド・アリ廟は、イスタンブールの
ブルーモスクを参考にして建設されており、
世界遺産に登録されているオールド・カイロ地区の中でも、最も美しい建造物です。

(エジプトのナイル沿岸は稲作が盛んですが、収穫後に焼畑を行う習慣があり、秋には写真のように空が煙で覆われます。)


オールド・カイロカイロは、古代エジプトの都だったと思われがちですが、
ピラミッドが建設された古王国時代の首都は、ギザより30km程南のメンフィスにありました。

ここに都市が建設されたのは、イスラム帝国時代の7世紀中頃。
イスラム帝国は、東ローマ帝国に対抗し、
現在のカイロ市街の南端、フスタートに軍事都市を築きました。

その後、北アフリカで興ったイスラム教シーア派のファーティマ朝に征服され、
ファーティマ朝は、フスタートの北に、エジプトの州都ミスル・イル・カーヘラ(アラビア語で『勝利の街』の意)を建設します。
このカーヘラをイタリア語読みしたことが、カイロの語源になったと言われています。

サラディンの興したスンナ派政権のアイユーブ朝では、カイロは首都となり、また、スンナ派の中心地となりました。
そして、アイユーブ朝に続くマルムーク朝の時代には、モンスーンを利用したインドとの交易によって、繁栄を極めます。

その後、オスマン朝に併合されることになりますが、GVOのイスパニアのイベントでは、
この式典がアレクサンドリアで行なわれ、参列するバルバロス・ハイレディンを狙撃するというシナリオがありましたね。


フスタート14世紀に流行したペストで、人口が激減したそうですが、
現在、カイロは、中東およびアフリカ大陸において、最も人口の多い街となっています。

人口もさることながら、喧騒の凄まじさにおいても一番かもしれません。
騒音のせいか、エジプトは難聴の人が多く声が大きいのですが、それがさらに喧騒に拍車をかけています。

カイロは、大きくなるにつれ、北へ北へと増築され、街の北側が新市街となっています。
逆に、カイロ発祥の地であるフスタートは、廃墟が残るのみ。
サラディンの侵攻の際、占領後にフスタートの施設を利用され、要塞化されることを恐れたファーティマ朝が自ら破壊し、現在に至るまで、その姿を留めているのです。
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カカドゥ

カカドゥ

カカドゥ国立公園は四国とほぼ同じ面積。
熱帯ジャングルに、クロコダイル、野鳥、巨大な蟻塚、古代の岩絵が残り、文化・自然の両方を満たした複合遺産に指定されています。
また、この辺りは、UFOの多発地帯としても有名です。本当に出るんですよ!


カカドゥ国立公園カカドゥ国立公園や、ウルル・カタジュタ国立公園を擁するノーザンテリトリーは未だ準州で、10年程前に自治権を得たばかりです。

街と街の間隔は100km以上、地図に街として掲載されている場所に、ガソリンスタンドがポツンと一軒あるだけというのも珍しくありません。

乾季には、乾燥と高温から、ブッシュファイヤーと呼ばれる自然発火が頻繁に起こるような、厳しい自然環境の元にありますが、最もオーストラリアらしさを感じられる地域です。


実際のカカドゥには港はなく、そこから100km程西の入江にあるダーウィンという街がGVOのカカドゥにあたります。
(ビーグル号が上陸した際、先の航海の乗組員チャールズ・ダーウィンに因んで命名されますが、ダーウィン自身は訪れていません。)
ダーウィンは、この準州の州都にして最大の街ですが、アウトバックのノーザンテリトリーですから、最大と言ってもこじんまりとした田舎町です。

街の中心部にあるモールには、大陸縦断を達成した探検家マクドゥオール・スチュアートの像が建っています。
この偉業を称え、南オーストラリア州の州都アデレードとダーウィンを結ぶ大陸縦断道路は、スチュアート・ハイウェイと名付けられています。
同時期に大陸縦断を競ったバーク隊は、南極点到達をアムンセン隊と競ったスコット隊と同様に悲劇に見舞われます。
この物語は本当にドラマチックなので興味のある方は調べてみてください。お勧めです。
(2003年には、大陸縦断鉄道も開通し、週2便運行しています。)


ダーウィン戦争博物館第二次大戦で、オーストラリアは日本の攻撃を受け、北部のダーウィンは最前線となった為、度重なる空襲で壊滅的な被害を被りました。
その為、反日感情を持った人も多く、戦争ドキュメント番組が放送された翌日などは、生卵を投げつけられることもあります。
オーストラリアでは、大きな街には必ず戦争慰霊碑があり、忘れられない傷となっているのです。

日本に限りませんが、自国の侵略の歴史を詳しく教育する国はありませんから、このことを知らない日本人が殆どだと思います。
海外渡航の際は、こういった歴史認識や文化・宗教についても予習して欲しいと思います。


先住民アボリジニの集落が多いことから、この辺りは、アボリジニの故郷と呼ばれますが、かつては東海岸の沿岸部にもアボリジニは暮らしていました。
入植者に土地を追われ、過酷な環境で暮らさざるを得なかったのです。

後にオーストラリア政府は、懐柔政策へ転換し、アボリジニに酒を与えましたが、
飲酒の習慣の無かったアボリジニは、その多くがアルコール中毒になりました。

現在、政府は、謝罪として、生活保護の支給や、アボリジニ居住地域へのプレハブ建設等を行っています。
しかし、この施策は、アボリジニを生活保護へ依存させてしまうという結果となってしまいました。
また、伝統的な生活を送るアボリジニの多くは野外で暮らしている為、プレハブの住居は使用されることなく、そのまま放置されているようです。
都市部で暮らすアボリジニもいますが、生活保護とアルコールで荒んだ生活を送ることが多く、白人との摩擦を、さらに大きなものにしています。
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ケープ

ケープ

ケープタウン1652年に、オランダ東インド会社の補給基地として建設されたケープ植民地こと、現在のケープタウン。

GVOと同じく、テーブル湾に沿って港と街が造られ、街の南には切立った岩山テーブルマウンテンがそびえています。

テーブルマウンテンは滅多に晴れず、頂上に沿って薄っすら雲がかかっていることが多いのですが、それもまたキレイです。
この雲は、テーブルクロスと呼ばれているのですが、センスのいいネーミングですよね。

洋上から見るテーブルマウンテンは雄大で、ケープタウンの象徴といった感じです。
当時の航海者達は、この岩山を見ることで、ケープに到着したことを実感したのではないかと、ふと思いました。
晴れた日のテーブルマウンテンからの眺望もまた素晴しく、ありきたりな言葉ですが、
ここから大西洋を臨むと、地球は丸いと実感できました。


テーブル湾には、黒人用の刑務所として使われた小島、ロベン島が浮かんでいます。
アパルトヘイト廃止運動によって逮捕されたネルソン・マンデラ元大統領も、ここに収容されていたそうです。


キャッスル・オブ・グッドホープ街には、オランダ東インド会社の総督の居城、キャッスル・オブ・グッドホープが残っています。

1666〜1679年にかけて築城され、南部アフリカで最古の建造物と言われています。
城は正五角形の城壁と掘に囲まれていて、テーブルマウンテンから見ると、函館の五稜郭のようです。

同じく1679年に建てられた、スレイブロッジと呼ばれる、オランダ東インド会社の奴隷宿舎も残っていてます。
現在は博物館として利用されていますが、奴隷をつないだ足枷等、当時の名残りを見ることができます。


ヨハネスブルグGVOのケープでは、ダイヤモンドや砂金が扱われていますが、産出地は内陸にあるキンバリーやヨハネスブルグで、現在でも採掘が行われています。

ヨハネスブルグの郊外には、盛り砂の台地があるのですが、これらは金を採掘した際に出た廃棄物なんです。

風の強い日は、舞いあがって砂嵐になるのですが、GVOの採集ポイントも、こんなことになっているんでしょうね。^^;


世界で最も危険な街と言われるヨハネスブルグを訪れたのは、南アフリカ最大のタウンシップ、
ソウェトを見学するため。
タウンシップとは、アパルトヘイトで隔離された黒人居住区のことです。
もちろん個人では行けないので、滞在先の宿で現地の案内人を手配してもらいました。

ソウェトソウェトには、バスの廃材を使ったバラック小屋が建ち並んでいます。
電気は通っておらず、見学させて頂いた家では、カーバッテリーが使われていました。

それでも、マンデラ元大統領の出身地であり、南アフリカ最大の街ヨハネスブルグにあるソウェトは、地方のタウンシップに比べるとインフラが整備されている方です。
共有の上水道が通り、衛生面を考慮してプレハブのトイレも設置されていました。

南アフリカには、『金を稼ぎたかったらヨハネスブルグへ行け』という言葉があります。
大金を稼ぐことを夢見て地方から出てくるものの仕事は無く、犯罪に手を染めてしまうという人が後を絶たなかったのですが、FIFAワールドカップ2010の誘致で、労働の需要も生まれ、また警察の巡回も強化され、多少は治安も良くなってきました。
しかし、隣国ジンバブエから労働者が流入してきており、新たな摩擦もおこっています。

《治安について》
危険の目安は個人の主観によって様々です。
海外は怖い所だという先入観があれば、全てのことは危険に思えるでしょう。
例え安全な場所でも、運悪く被害に遭ってしまった人には、そこは危険な場所になりますし、
逆に、危険な場所でも、偶然、無事だったというだけで、安全だと錯覚してしまうこともあります。

ヨハネスブルグの治安は、悪いに違いはないですが、話が大きくなり過ぎているのが実際のところ。
注意して行動していれば、ある程度の危険は回避可能で、決して滞在できない場所ではありません。
それでも、被害に遭う時には遭うものなので、最後は自分の判断、自己責任になりますが…。
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