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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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英雄の死

アレクサンドロス大王の石棺

アレクサンドロス大王の石棺レバノンの首都ベイルートから30km程南にある、シドン遺跡から発掘された大理石の棺で、イスタンブールの考古学博物館に展示されています。

石棺には、ペルシャ軍と戦う大王や、狩りをする大王のレリーフが彫られている為、
『アレクサンドロス大王の石棺』と呼ばれていますが、
残念ながら、棺の主は大王ではなく、大王に仕えたシドンの王アブダロニモスの物である可能性が高いそうです。


大王は征服した土地の首府として、アレクサンドリアという名の都市を各地に建設していましたが、広大な領土を征服した大王の陵墓もまた、複数、建設されていたそうで、遺体の埋葬場所については、現在ではわかっていません。

アレクサンドロス大王の死は、病死説と暗殺説があり、非常に興味深いです。
遺体が発見されれば、死因についても調査ができるかもしれませんね。


アレクサンドロス大王の石棺レリーフのアレクサンドロス大王は、自らをヘラクレスに準え、獅子頭の兜を身につけています。
これもGVOで、実装して欲しかったですね。


南アジアから中東・北アフリカにかけての地域では、成人男性はヒゲを蓄えるのが一般的なのですが、
石棺のレリーフのように、大王の肖像は、全てヒゲが剃られた姿で描かれています。
戦いの際、敵にヒゲを捉まれ、身動きが取れなくなることが無いよう、幕下の兵にもヒゲ剃りを習慣づけさせていたのです。

大王の逸話』と同様、ここでも、アレクサンドロス大王の合理的な性格を伺うことができますね。
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大王の逸話

アレクサンドロス大王の剣

紀元前12世紀頃、鉄の武具により小アジア(アナトリア半島)を席捲したヒッタイトが滅亡し、それに変わって、中部アナトリアにフリギア王国が興りました。

『王は牛車で訪れる』という神託の後、偶然、そこを通りかかった貧しい農夫のゴルディアスが初代フリギア王となったと、ギリシャ神話では伝えられています。
(ゴルディアスの息子で2代目の王が、ロバの耳などで有名なミダス王です。)

ゴルディオンゴルディアスは、フリギアの都ゴルディオンを築き、その神殿に牛車を奉納し、特殊な方法で結びつけました。

その後、『この結び目を解く者がアジアを支配する』との神託が下り、
それから数百年、幾多の勇者がこれに挑んできましたが、誰も結び目を解くことができませんでした。


紀元前333年、アナトリア半島へ遠征したアレクサンドロス大王は、ゴルディオンを制圧した際、家臣から、この結び目の話を聞きました。
牛車の前に立った大王は、結び目を解こうとはせず、剣を抜いてロープを一刀両断にしたと言います。

これが、このクエストでも語られる『ゴルディアスの結び目』という有名な逸話です。
史実か創作かはわかりませんが、大王の人物像が伺えるエピソードですね。
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トロイ王家の財宝

プリアモス王の財宝

プリアモス王の財宝として知られていますが、シュリーマンが発掘した、この財宝は、
第2市からの出土品です。
第7市の層に戦の痕跡が見つかっており、トロイ戦争は第7市の時代に起きたとみられています。
それが正しければ、時代が一致しないので、この財宝は、プリアモス王の物ではないということになりますね。
トロイ戦争は複数回起きていたという説もありますが、今となっては真実は判りません。


プリアモス王の財宝第2市の時代は、約4500〜4200年前。
そんな時代から、装飾品を加工する技術や美意識があったんですね。
第2市から出土した他の遺物と比べ、洗練されており、王家の財宝というのは間違いないと思います。

写真は、イスタンブール考古学博物館に展示されている財宝の一部。
写真左上の財宝を身に付けた女性は、シュリーマンの妻ソフィアです。

シュリーマンがドイツに持ち帰った財宝は、第二次大戦中に所在不明となっていましたが、その後、ロシアで発見されました。
現在は、モスクワのプーシキン美術館に展示されていますが、トルコとドイツも所有権を主張しています。
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水位計測器の地図

ナイロメーター

ナイロメーター写真は、ナイル川上流のアギルキア島にあるイシス神殿のナイロメーター。
古代エジプト・プトレマイオス朝(約2300〜2000年前)に作られた物です。
元々はフィラエ島にあった遺跡でしたが、アスワン・ダムの建造により一部が水没してしまい、アスワン・ハイ・ダムの建造を機に、アメリカの資金援助により移築されました。

写真ではわかりづらいですが、遺跡から地下へ階段が伸び、ナイル川に通じています。
侵食により消えてしまっていますが、かつては壁面に目盛りが彫られていました。


イシス神殿とアスワン・ダム後期に造られた物は形状が違い、ドーム状の建物の柱に目盛りが彫られています。

ダムの建造により洪水は無くなりましたが、現在でも水位観測には使用されているそうです。

観光地にある古代のナイロメーターには、
目盛りの数字が現代のアラビア語になっている物があるようです。
観光客寄せにレリーフを作り直したんでしょうね。^^;


日本では、算用数字のことをアラビア数字と言いますが、実は間違い。
アラビア語にはアラビア文字の数字があるのです。
アラビア語は右から左に書きますが、数字だけは左から右に書きます。
数字と単位とで書く方向が違うので、道路標識を読む時には注意が必要です。
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