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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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ペルシャの海

ペルシャ湾

アラビア半島の国々ではアラビア湾と呼ばれており、イランとの間で呼称問題が起きています。

ペルシャ湾写真は、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ首長国です。

ペルシャ湾で泳いでみようとビーチへ行ったのですが、この日は、女性限定の日で、別のビーチへ移動させられてしまいました。
観光開発されているとはいえ、やはり男女の別が厳しいイスラム教国です。
女性限定の日があるだけでも、男性中心のイスラム教においては革新的な方でしょう。


ここから海路でペルシャ湾を渡り、イランのバンダル・レンゲへ向かいました。
アブダビ首長国からならホルムズ行きがあったのですが、アブダビへの旅費・滞在費があれば、イランまでの航空券が買えるので、馬鹿らしくなって取り止めました。
国の物価とは一概には計れないもので、UAEは、中東諸国の中で物価は高めですが、産油国で燃料が安い為、航空運賃は格安だったりします。
ちなみに、GVOのホルムズは、実際はバンダル・アッバースという名前です。
ホルムズは、その対岸の島の名前なんですよ。



ドバイの王族が経営するエミレーツ航空は、世界中の航空会社とコードシェアしており、
このネットワークによって、ドバイを経由することで、世界各地へ行くことができます。
利便性が高い割りに廉価で、さらに機種・サービスも良いので人気の航空会社です。

エミレーツ航空の往復航空券は、復路のみストップオーバーが無料になっています。
ここは自由貿易港─。帰路に立ち寄り易くすることで、土産の免税品ショッピング、観光、航空事業と、相乗効果をもたらしているのです。
何も無い砂漠の国に、人と金を流通させる手段が航空事業と観光開発だったわけです。
石油資源が枯れた時の為に、新たに興した産業がこれだったんですね。

ドバイの街は、オイルマネーで狂騒的に建設された訳ではないですが、訪れる度に、
高層ビルや人口島が増えていて、観光開発とは言え、明らかにやりすぎ…。
オイルによって急速に富を得た為、散財の仕方が凄まじいのです。
現在、世界同時不況によって陰りが見えていますが、日本で報道されている程ではないようです。


ドバイには、世界一の超高層ビル、ブルジュ・ドバイ(818m)があります。
また、現在、1050mの超々高層ビルも計画中。クウェートでは1001m、サウジアラビアでは1609mと、
他の中東地域でも超々高層ビルが計画されています。
バベルの塔の逸話がある中東地域で、このような高層建築競争が起きているとは皮肉な話です。
旧約聖書のように、神の怒りを買わなければよいのですが…。

トロイ戦争に代表されるように、神話や伝説は、史実に創作を加えて創られていることがあります。
(旧約聖書を史実と考える人もいますが)バベルの塔は、古バビロニア王国のジグラットが元になったと考えられています。
ジグラットとは、『古代メソポタミアの都市』の発見物ウルに見られるような、階段状の建造物です。
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アラビア航路の確保

アラビア半島

ここは、ワディ・ラムと呼ばれる砂漠地帯。
『アラビアのロレンス』の舞台になった場所でもあります。

ワディ・ラム車を手配してみると、やってきたのは荷台に座席が付いたトラック。
ドライバーを務めてくれたのは、アラビア半島の遊牧民ベドウィンの若者でした。

遊牧民族のベドウィンですが、最近は定住生活をする人が増えてきています。
しかし、遊牧生活の習慣が抜けないのか、家の外にテントを張って、そこで生活する
ベドウィンもいるんですよ。

遊牧生活を送っていたある日、先進国の都合で国境線が引かれ、
その時、産油国側と非産油国側のどちらに居たかで、裕福な生活をする人と、伝統的な生活をする人に分かれることになるとは、夢にも思わなかったことでしょう。


この砂漠には、シリアの首都ダマスカスから、イスラム教の第二聖地メディナまで続く、ヒジャーズ鉄道が通っていました。
この巡礼鉄道は、第一聖地のメッカまで繋がれる予定でしたが、
オスマン帝国の兵站も担っていた為、第一次大戦中、ロレンスによって破壊され、現在は貨物列車しか通っていません。

メッカ巡礼はハッジと呼ばれ、イスラム教徒にとって人生の目標となっています。
明の航海者の鄭和(雲南地方出身の少数民族で、イスラム教徒)も、メッカ巡礼を志し、7度の航海で、自ら訪れることは出来ませんでしたが、最後の航海の際、艦隊の一部をメッカへ送ったといいます。

メッカを巡礼した人に話を聞いてみたところ、メッカに着いた途端、涙が溢れて止まらなくなったそうです。
感極まった訳ではなく、気付くと溢れていて、一緒に巡礼した家族もそうだったのだとか。

メッカは、玄関口となっているジェッダからバスで1時間程の所にありますが、メッカ手前の検問所に、各言語で、イスラム教徒以外の立ち入りを禁ず旨が書かれた看板があり、そこから先に進むことはできません。
どんな所なのか、イメージだけが膨らみます。


アラビア半島右の写真はベドウィンのテントです。
ドライバーの紹介でテントに入れてもらい、
シャイ(紅茶)をご馳走になりました。

この辺りはハエが多くて、シャイの中にも入ってしまいます。
しかし、ベドウィンの迷信では、ハエは片方の羽に毒があり、もう片方の羽に解毒作用があるので、そのまま飲んでも問題ないんだそうです。

インド原産のチャイ(紅茶)ですが、アラビア語ではシャイと言います。
日本語や中国語等、アジア地域ではチャ。英語ではティーで、その他の欧州地域ではテーと言うことが多いです。伝わっていく過程で、少しずつ変化していったんでしょうね。
こんな、ふとした発見も、旅行の楽しみの一つです。
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大陸北西岸の基礎調査

キンバリー台地

アクセスが悪く、観光開発が進んでいない西オーストラリア州の内陸部は、手付かずの大自然が残っています。
この地域に存在する風景の一つ一つが国立公園級で、空気が乾燥している為、星空の美しさも世界有数です。


バングルバングルこの連続クエストの中で、度々、語られる、キンバリー台地の奥深くに存在する聖地
バングルバングル。
ウルルに匹敵する絶景ですが、GVOでは、クエスト中の情報のみで残念でした。

『バングル』とは、この地域のアボリジニの言葉で『砂の岩』という意味。
文字通り、風化した砂岩によって造られた地形です。

アボリジニの伝承で、このような奇岩群が存在していることは知られていましたが、
あまりに奥地にある為、発見できたのは、ほんの数十年前。
これよりも小規模ですが、似たような地形が先に発見されて、そこがバングルバングルと誤認されてしまい、国立公園に指定されるという珍事までありました。

ここを訪れることが出来るのは、干上がった川を道として利用できる乾季のみ。
一度、道を間違えると数百km迷い込んでしまうこともあるそうです。
遊覧飛行も出ていて、こちらも素晴しいそうですが、このスケールを体感するには実際に訪れるに限ります。
写真には一部しか写せませんが、実際は、この数十倍のパノラマで、このような奇岩が、奥へ延々と続いています。


また、世界で唯一ピンクダイヤが産出される、アーガイル鉱山もこの辺りにあります。
ピンジャラよりも、カカドゥに近い位置にありますが、行政区分では西オーストラリア州になることから、間違えてピンジャラの交易所に出してしまったんでしょうね…。


南アフリカのキンバリーで、ダイヤモンド鉱脈が発見されたことに由来し、ダイヤモンド層のことを
キンバーライト層と呼ぶようになったことを、以前、『不滅の星』の記事で書きました。
これは想像なのですが、キンバリー台地という地名は、ダイヤモンドが産出されることに因んでいるのかもしれませんね。
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アフリカの南端

喜望峰

ポルトガル語で、Cabo da Boa Esperanca、英語でも、Cape of Good Hopeなので、直訳すると希望峰ですが、なぜか喜望峰で定着しています。

ケープ半島は、先端で二股に分かれていて、西側の岬が喜望峰、東側はケープポイントと呼ばれています。
喜望峰の西側の崖下には舗装道路が造られていて、車で喜望峰の先端近くまで行くことができるのですが、この時は、喜望峰がアフリカ縦断旅行のゴールだったので、簡単に着いてしまうのも味気ない。
崖の上はトレッキングコースになっているので、歩いて岬の先端まで行くことにしました。
観光地の喜望峰ですが、歩いて行く人は他におらず、誰にも邪魔されず感傷に浸りながら喜望峰に到達することができました。

喜望峰喜望峰は、アフリカ大陸の南西端ですが、最南端ではありません。
『真の最南端』というクエストにあるように、最南端は、喜望峰から200km程南東にあるアグラス岬です。

GVOではアガラス岬となっていますが、
ポルトガル語で針という意味のアグラス(agulhas)が正解。


1485年、ベニン王国を訪れた使節が、ベニン王から『奥地に、真鍮の十字架を崇拝する国がある』と聞かされます。
この報告を聞いたポルトガル王ジョアン2世は、アフリカに『プレステ・ジョアンの国』があるという確信を深め、トゥンブクトゥをはじめ、西アフリカの内陸を調査させました。
それと同時に、バルトロメウ・ディアスに、アフリカ南方の調査を命じ、これが喜望峰発見へとつながったのです。

地球球体説は、古代ギリシャの頃から唱えられていましたが、中世に忘れ去られ、
この時代は、海の果ては滝になっていると考えられていました。
アフリカに至っては、気温が高く、人々の肌が黒いことから、南下すると焼け焦げてしまうと信じられていたので、乗組員は不安と戦いながらの航海だったでしょう。

ディアスは、ウォルビス湾(GVOのカリビブ)で補給をしてから、さらに南下しますが、嵐に巻き込まれ視界を失います。
嵐が去った後、陸地を求め東へ進路をとりますが、一向に陸地は見えてきません。
そこで北上してみたところ陸地が現れ、アフリカ大陸の南端を越えていたことに気づいたといいます。

ディアス博物館この時、ディアスが上陸したのが、アグラス岬から200km程東にある、モッセル湾という入江です。
この港は、これ以降、インド航路の補給港として使用されるようになります。

ディアスは、さらに航海を続けようとしますが、船員達の反対により引き返すことになります。
そして、その帰路に、アグラス岬と喜望峰を洋上から発見しています。


モッセル湾には、ディアスが水を調達したという泉が現在も残り、またディアス博物館も建てられています。
ディアス博物館には、ディアスのキャラベル船のレプリカが展示されているのですが、
これは、ディアスのアフリカ南端到達500周年を記念して、当時の航海を再現し、リスボンから回航してきた船なんですよ。


喜望峰発見より9年後、ディアスはヴァスコ・ダ・ガマの艦隊に編入され、カーボヴェルデまで先導しています。
この航海で、ガマはインド航路を開拓する訳ですが、先の航海で引き返さざるを得なかったディアスの胸中は、いかなるものだったのでしょうか?

インド洋のモンスーンを利用した航路は、アラブ人の間で古くから使われており、ガマの航路開拓は欧州人としてのものでした。
ガマは、マリンディの王から、イブン・マージドというアラブ人を紹介され、このマージドの案内によってカリカットに至っています。
しかし、これによって、アラブ人はインド航路の利権をポルトガルに奪われてしまいます。

GVOのザンジバルに、元老マージドというNPCがいますが、これがイブン・マージドなんでしょうか?
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