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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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プレステ・ジョアンの国

アクスム石柱群

エチオピアの首都アディスアベバからバスで4日…。まさに陸の孤島です。
アクスムは、かつてのシバ王国であり、大航海時代にはポルトガルから、伝説のキリスト教国プレステ・ジョアンの国と信じられた場所でもありました。

アクスム石柱群プレステ・ジョアンは想像上の人物で、ポルトガル語で司祭ヨハネを意味します。
東方にあるキリスト教国の王で、キリストが誕生した際、東方から駆けつけた三博士の末裔であると言われています。

十字軍がイスラム勢力との戦いで苦戦する中、このプレステ・ジョアンからローマ皇帝に、『聖地エルサレム奪回の意志がある』という旨の手紙が届いたとの噂が広まり、この伝説がヨーロッパに浸透するようになりました。

東方から援軍が来れば、イスラム勢力を挟撃できます。
しかも、その援軍は伝説のキリスト教国な訳ですから、この風聞で十字軍の士気はさぞ上がったことでしょう。
日本の幕末に、天から御札が降ってきたという噂で興った『ええじゃないか』も、尊皇派が神道の御札を使い先導したとの見方がありますが、
プレステ・ジョアンの手紙も、これと同様に意図的に広められたような気がします。


当初、プレステ・ジョアンの国はモンゴル帝国であると考えられていました。
これは、モンゴルが遠征の際に吸収した遊牧民族の中に、ローマ帝国により追放されたキリスト教の異端ネストリウス派が含まれていた為です。
(この時、モンゴル軍を指揮したのが、『遊牧民族の西進』というクエストで語られているチンギス・ハンの孫バトゥです。)
しかしモンゴルは、キリスト教圏の東欧諸国にまで攻撃を始め、この説は立ち消え、
後の時代に、アクスム王国がプレステ・ジョアンの国と考えられるようになりました。


エチオピアには、古代イスラエルのソロモン王と、シバの女王マケダの間に生まれた
メネリク1世が、『十戒』を納めた『契約の箱』をエルサレムから持ち帰ったという言い伝えがあり、エチオピア正教では『契約の箱』が信仰の対象になっています。

3世紀頃、コプト教(エジプトで興った原始キリスト教)が伝わってきたことによって興ったエチオピア正教ですが、こういった背景からユダヤ教の影響が色濃く残っています。

ポルトガルが信じたプレステ・ジョアンの国でしたが、エチオピアは古代イスラエル王家の末裔を称しており、これを否定したと言います。


ラリベラの岩窟教会群アクスム王国が衰退した後、エチオピア正教の中心地は、アクスムの南にあるラリベラへと移行します。

ラリベラには、巨大な一枚岩をくりぬいた石窟教会群があり、洞窟の中で、ミイラになるまで聖書を読み続ける修道士が、現在でもいるんですよ。

イスラム勢力により、聖地エルサレムへの巡礼ができなくなったエチオピア正教徒は、このラリベラを第二のエルサレムにしようと考えました。
その為、ラリベラには、エルサレムにある地名と同名の場所が多く存在しています。

エチオピアン・クリスマスには、各地から徒歩で巡礼者が集まり、中には数百kmの道程を歩いてくる巡礼者もいるそうです。


イスラム勢力の強いアフリカ北東部において、エチオピア正教が生き残れたのには理由があります。
イスラム教の開祖ムハンマドがアラビア半島で弾圧をうけた際、この地に逃れ、時のアクスム王より、宗教の壁を越えた庇護をうけたのです。
ムハンマドは、この地を聖戦(ジハード)の対象から外すと定めたと言われています。


エチオピアのバスの座席は、右側2列、左側3列のベンチシートで、かなり窮屈です。
悪路に酔って嘔吐する人が多いのですが、悪霊が入ってくると信じられており、窓を開けるのはNG。
当然、揺れの少ない前寄りの座席は、奪い合いになります。
長距離バスは大抵、早朝6時発なのですが、5時頃から並ばないと良い席を確保できません。

車内では、チャットという合法のソフトドラッグやサトウキビをかじる人が多く、
夕方頃になると、チャットとサトウキビのカスで、床が埋め尽くされてしまいます。
途上国では、ゴミは自然に還る物ばかりなので、ゴミ箱に捨てるという習慣がないんですね。
(最近ではプラスチック製品が増えてきて、ポイ捨てが問題になっています。)
チャットをやっているドライバーもいましたが、お前はやるな!

アクスムまではキツイ道程でしたが、それも旅行の醍醐味ですね。
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