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大航海時代 Onlineの冒険と旅行記
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不滅の星

エターナルスター

南アフリカとナミビアとの国境になっているオレンジ川。
GVOでも、オレンジ川の河口が、カリビブ〜ケープ間の海岸線にありますね。

南アフリカの星1866年、このオレンジ川の中流で遊んでいた少年が、輝く石を見つけました。
この輝く石が、21.25カラットのダイヤモンと判明し、
『ユーレカ』と名付けられます。

続けて、近隣の農夫が83.50カラットのダイヤモンドを発見したことで、南アフリカはダイヤモンド・ラッシュに沸くことになります。

この時、発見された83.50カラットのダイヤモンドは、後に『南アフリカの星』と命名されました。
これが、クエストのタイトル『不滅の星』と、発見物の『エターナルスター』のモデルかと思われます。


1871年には、オランダ系移民の国、オレンジ自由国のキンバリーで、ダイヤモンドの鉱脈が見つかりました。
これに由来し、ダイヤモンドの鉱脈はキンバーライト層と呼ばれるようになります。
この報を聞いた鉱夫達はキンバリーに押し寄せ、キンバーライト層の周りに、1万人分の鉱夫のテントが立ち並んだそうです。

ビッグホールキンバリーには、ダイヤモンドの採掘でできた『ビッグホール』と呼ばれる巨大な穴が開いています。

背後のビル群が小さく見えるのは遠近感のせいだけではありません。
この穴は、周囲1.6km、深さ393m。
機械を使わずに人力で掘られた穴としては世界最大だそうです。
1914年の閉山までに、2250万tの土が掘り返され、2722kgのダイヤモンドが採掘されたそうです。

宝石に魅せられたのか、ここまでするとは、人間の欲深さは気味が悪いですね…。

この『ビッグホール』には、鉱山博物館が併設されていて、ダイヤモンドラッシュに関する資料や、当時の採掘機等を見ることができます。
『南アフリカの星』のレプリカや、少年の発見した『ユーレカ』、世界最大の611カラットのダイヤモンドの原石等も展示されていました。


ケープ植民地がイギリスに譲渡され、1833年に奴隷解放が宣言されると、奴隷の労働力に頼りきっていたオランダ系移民(現在のアフリカーナー)は、内陸へグレート・トレックと言われる移動を開始し、武力で黒人の土地を奪っていきます。
そして、南アフリカ中部にオレンジ自由国、北部にトランスバール共和国を建国します。

しかし、オレンジ自由国でダイヤモンド、トランスバール共和国で金が産出すると、イギリスは、この二ヵ国をケープ植民地に併合しようとします。
内陸国のトランスバール共和国は、ナタールにあるズール族の王国を奪い、イギリスに対抗しようとしますが、それを察したイギリスは先手を打ち、ズールー王国を占領します。
そして、第一次ボーア戦争、第二次ボーア戦争を経て、1902年にイギリスの支配下となります。
この戦いにおいて、現地の黒人達は、両軍に強制的に徴兵され、多くの人が犠牲になりました。

イギリスは、オランダ系移民との関係を回復させ、1910年に南アフリカ連邦が成立します。
南アフリカ連邦においても、自らの利権を守ろうとし、民族主義を主張し続けたアフリカーナーは、
やがてアパルトヘイトを形成していくことになります。


当時、キンバリーには、ダイヤモンドの採掘会社が無数にありました。
採掘で富をなし、デ・ビアス社を興したセシル・ローズという人物は、ユダヤ系イギリス人の金融財閥ロスチャイルド家から融資を得て、全ての採掘会社を統合し、鉱山開発権を独占します。
(ロスチャイルド家は、後のイスラエル建国にも多大な影響を与えています。)

そして、ダイヤモンドで得た資金を元に政界に進出し、ケープ植民地の首相に登りつめ、さらに、イギリス東インド会社をモデルに、イギリス南アフリカ会社を設立。
現在のザンビア、ジンバブエにあたる、南東アフリカ地域を植民地支配し、ローデシア
(ローズの家)と名付けています。

1886年に、トランスバール共和国のヨハネスブルグで金が産出されると、セシル・ローズは、武器を密輸し、同国内のイギリス系労働者に武装蜂起させて、クーデターで国を乗っとろうと企てます。
しかし、これは失敗に終わり、国際社会から糾弾されて、政界から失脚しています。


その後も、デ・ビアス社は世界中の鉱山や販売会社を買収し、採掘・加工以外に、流通・販売も自社で一元管理し、市場価格をコントロールしていきます。
そして、1931年には、CSO(中央販売機構)という組織を設立し、独占体制をさらに強固なものにしました。
現在の技術で、人工的にダイヤモンドを生成できるそうですが、これが市場に流入しないのは、デ・ビアス社が抑止しているからだそうです。

デ・ビアス社のキャッチコピーは、『ダイヤモンドは永遠の輝き』という有名なフレーズ。
発見物『エターナルスター』のエターナルは、ここから付けられたのかもしれませんね。
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ケープ

ケープ

ケープタウン1652年に、オランダ東インド会社の補給基地として建設されたケープ植民地こと、現在のケープタウン。

GVOと同じく、テーブル湾に沿って港と街が造られ、街の南には切立った岩山テーブルマウンテンがそびえています。

テーブルマウンテンは滅多に晴れず、頂上に沿って薄っすら雲がかかっていることが多いのですが、それもまたキレイです。
この雲は、テーブルクロスと呼ばれているのですが、センスのいいネーミングですよね。

洋上から見るテーブルマウンテンは雄大で、ケープタウンの象徴といった感じです。
当時の航海者達は、この岩山を見ることで、ケープに到着したことを実感したのではないかと、ふと思いました。
晴れた日のテーブルマウンテンからの眺望もまた素晴しく、ありきたりな言葉ですが、
ここから大西洋を臨むと、地球は丸いと実感できました。


テーブル湾には、黒人用の刑務所として使われた小島、ロベン島が浮かんでいます。
アパルトヘイト廃止運動によって逮捕されたネルソン・マンデラ元大統領も、ここに収容されていたそうです。


キャッスル・オブ・グッドホープ街には、オランダ東インド会社の総督の居城、キャッスル・オブ・グッドホープが残っています。

1666〜1679年にかけて築城され、南部アフリカで最古の建造物と言われています。
城は正五角形の城壁と掘に囲まれていて、テーブルマウンテンから見ると、函館の五稜郭のようです。

同じく1679年に建てられた、スレイブロッジと呼ばれる、オランダ東インド会社の奴隷宿舎も残っていてます。
現在は博物館として利用されていますが、奴隷をつないだ足枷等、当時の名残りを見ることができます。


ヨハネスブルグGVOのケープでは、ダイヤモンドや砂金が扱われていますが、産出地は内陸にあるキンバリーやヨハネスブルグで、現在でも採掘が行われています。

ヨハネスブルグの郊外には、盛り砂の台地があるのですが、これらは金を採掘した際に出た廃棄物なんです。

風の強い日は、舞いあがって砂嵐になるのですが、GVOの採集ポイントも、こんなことになっているんでしょうね。^^;


世界で最も危険な街と言われるヨハネスブルグを訪れたのは、南アフリカ最大のタウンシップ、
ソウェトを見学するため。
タウンシップとは、アパルトヘイトで隔離された黒人居住区のことです。
もちろん個人では行けないので、滞在先の宿で現地の案内人を手配してもらいました。

ソウェトソウェトには、バスの廃材を使ったバラック小屋が建ち並んでいます。
電気は通っておらず、見学させて頂いた家では、カーバッテリーが使われていました。

それでも、マンデラ元大統領の出身地であり、南アフリカ最大の街ヨハネスブルグにあるソウェトは、地方のタウンシップに比べるとインフラが整備されている方です。
共有の上水道が通り、衛生面を考慮してプレハブのトイレも設置されていました。

南アフリカには、『金を稼ぎたかったらヨハネスブルグへ行け』という言葉があります。
大金を稼ぐことを夢見て地方から出てくるものの仕事は無く、犯罪に手を染めてしまうという人が後を絶たなかったのですが、FIFAワールドカップ2010の誘致で、労働の需要も生まれ、また警察の巡回も強化され、多少は治安も良くなってきました。
しかし、隣国ジンバブエから労働者が流入してきており、新たな摩擦もおこっています。

《治安について》
危険の目安は個人の主観によって様々です。
海外は怖い所だという先入観があれば、全てのことは危険に思えるでしょう。
例え安全な場所でも、運悪く被害に遭ってしまった人には、そこは危険な場所になりますし、
逆に、危険な場所でも、偶然、無事だったというだけで、安全だと錯覚してしまうこともあります。

ヨハネスブルグの治安は、悪いに違いはないですが、話が大きくなり過ぎているのが実際のところ。
注意して行動していれば、ある程度の危険は回避可能で、決して滞在できない場所ではありません。
それでも、被害に遭う時には遭うものなので、最後は自分の判断、自己責任になりますが…。
comments (0) | trackbacks (0) | 港・集落

未来を守る力

ゴリアテの剣

GVOでもお馴染みの、謎の海洋民族『海の民』は、紀元前14〜11世紀頃にかけて、
アナトリア半島、エーゲ海、地中海東岸、エジプトにかけ猛威を振るいました。
ヒッタイトやミケーネ文明を滅ぼし、トロイ戦争においてもスパルタの遠征に影響を与えたという説があります。

『海の民』の起源は未だ不明ですが、ギリシャ周辺の複数の民族の集合体であるとみられています。
(同時期に東地中海の海洋交易で栄えたフェニキア人と、よく混同されますが、こちらはセム語派で、インド・ヨーロッパ語族である『海の民』とは別の民族です。)
この『海の民』を構成する民族の一つペリシテ人が、シリアの地中海沿岸にある都市国家ウガリットを滅ぼして、イスラエルにも侵攻してきました。

ペリシテ人は、イスラエルには無い鉄の武器を装備しており、イスラエルは劣勢に立たされます。さらに、ペリシテ人の中には、身長6.5アンマの巨人、ゴリアテがいました。
(アンマとは、旧約聖書で使われている単位で、1アンマ=45cmだそうです。)
これに対し、羊飼いの少年ダビデは、スリングから石を放ちゴリアテの額に命中させ、
昏倒したゴリアテから剣を奪って首を刎ねます。


ダビデ像写真は、エルサレム旧市街の要塞跡にあるダビデの銅像です。
足元にはゴリアテの首が転がり、右手には『ゴリアテの剣』が握られています。

当初、ここにはミケランジェロのダビデ像のレプリカが置かれる予定でしたが、
聖地に裸像を置くことへの反発があり、この像に変更されたそうです。


このクエストの前提に、『アイン・ジャールートの戦い』というクエストがあります。
石の記憶』で説明したように、アインとはアラビア語で泉という意味です。また、ジャールートとはゴリアテのアラビア語読みで、『アイン・ジャールート』とは、『ゴリアテの泉』という意味になります。
これはイスラエル北部に実際にある地名で、『アイン・ジャールートの戦い』とは、地名に因んで名付けられた、マルムーク朝とモンゴル軍との戦いのことです。
語呂がいいので使われたのだと思いますが、クエストは完全に創作でしたね…。
(この時、モンゴル軍を率いたのが、財宝探検家と史学家の転職クエスト『イル・ハン国の財宝』で
財宝を残したフラグです。)


ヨシュア以降、イスラエルは士師と呼ばれる指導者に導かれていましたが、この頃から、民が王政を望むようになります。
最後の士師となったサムエルは、神の啓示に従い、サウルという人物を王に擁立しますが、神の命令を果たせなかったサウルは加護を失ってしまいます。

ゴリアテを倒して英雄となったダビデは、このサウルに仕えることになりますが、サウルはダビデの名声を妬んで殺害しようとします。
ダビデは、命を狙われながらもペリシテ人と戦い続け、サウルを討つ機会があっても、神が選んだ人物であるサウルには、決して手を出さなかったそうです。
サウルがペリシテ人との戦いで命を落とすと、ダビデは、神託により士師サムエルから次代の王に任ぜられることになります。


ダビデの街王となったダビデは、イスラエルの首都を
エルサレムと定めました。

この時代の街の遺跡が、現在のエルサレム旧市街と、その東にあるオリーブ山の間のケデロン谷にあります。
エルサレム発祥の地であるこの遺跡は、
『ダビデの街』と呼ばれています。


ケデロン谷の斜面には夥しい数の墓があります。西側の『神殿の丘』の斜面はイスラム教徒の墓地、そして東側のオリーブ山の斜面はユダヤ教徒の墓地になっています。

ユダヤ教では、終末の日に、この谷に『紙の橋』と『鉄の橋』が架かり、人々は最後の審判を受けると言われています。信仰深い者は『紙の橋』を選びますが、目に見えるものしか信じない者は『鉄の橋』を選び、橋が崩れて谷に落ちるのです。

また、旧約聖書のゼカリヤ書には、『その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。』とあります。

昇天教会オリーブ山にユダヤ教徒の墓が多いのは、終末の日に蘇り、『紙の橋』を渡って、主と共にエルサレムに入る為。

『神殿の丘』にイスラム教徒の墓が多いのは、蘇ったユダヤ教徒にエルサレムを奪われることを阻止する為だそうです。

オリーブ山は、処刑された後に復活したキリストが、40日後に昇天した場所と言われ、山頂には昇天教会が建てられています。

ユダヤ教では主は未だ到来していませんが、新約聖書の解釈では主とはキリストで、終末の日に、
ここに復活すると信じられているのです。


自分を殺害しようとしたサウルを許したダビデは、まさに王の器と言えるでしょう。
しかし、英雄色を好むとでも言うのでしょうか?ダビデは、家臣ウリヤの妻バト・シェバを目に留め、不義の関係を結びます。
そして、それを隠す為に、戦場でウリヤを死に追いやり、バト・シェバを妻に娶ります。
神はこれを許さず、バト・シェバとの間に生まれた最初の子供は、生後すぐに病で亡くなります。そして、バト・シェバとの間に2番目に生まれたのがソロモンでした。


その後、ダビデは、息子アブサロムの叛乱により失脚します。
この時、アブサロムが招き入れた軍師は、バト・シェバの祖父アヒトフェルでした。
アヒトフェルは、王が代わったことを民衆に示す為、ダビデの後宮を奪うようアブサロムに勧めます。
これは、孫娘を奪われたアヒトフェルの復讐だったのか、それとも神の与えた罰だったのでしょうか?
ダビデは荒野に落ちますが、近隣の豪族に迎えられ、アブサロムの追撃軍を打ち破ってエルサレムに帰還します。


ダビデ亡き後、王位を巡る兄弟の争いに勝利したソロモンは、3代目の王位に就きます。
ソロモンは、エルサレム神殿を建設し、その至聖所に『契約の箱』を納め、イスラエルは最も反映した時代を迎えたのです。


旧約聖書の列王記によると、『シバの女王は、主の御名によりソロモン王の名声を伝え聞き、難問をもって彼を試みようと訪れた。』とあります。

ソロモン王は、美しく聡明なシバの女王マケダをいたく気に入りますが、マケダは側女を差し出して、自らは応じようとしませんでした。
そこでソロモン王は、マケダをもてなす宴で、料理の味付けを辛くし、さらに宴の開始を遅らせ、自分の館へ泊まらせます。そして、館の物には手を出してはならないとマケダに約束させます。
しかし、宴の料理で喉が渇いたマケダは、枕元の瓶に入っていた水を飲んでしまいます。
こうして、約束を守れなかったマケダは、その代償として、ソロモン王との間に、エチオピア初代皇帝となるメネリク1世をもうけることになる訳ですが、こういった逸話を聞くと、父親のダビデとイメージが重なりますね。
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石の記憶

十戒

預言者モーゼは、虐げられていたイスラエルの民を連れてエジプトを脱出し、
紅海を割ってシナイ半島に至ります。
そして、シナイ山の山頂で、神から十戒を授かりました。
(よく混同されますが、預言者とは、神から言葉を預かる者で、予言者とは異なります。)

シナイ山このシナイ山で、山頂からご来光を拝んできました。

登山中、ベドウィン(アラビア半島の遊牧民)の老人と知り合い、ご一緒させてもらったのですが、なんと、この老人の名前がムーサだったんです。
ムーサとは、モーゼのアラビア語読み。
偶然にも、モーゼと一緒にシナイ山に登ってしまいました!


ネボ山その後、モーゼ一行は、『約束の地カナン』へ向かいますが、逃避行に疲れた民が、不平を口にした為、
神に40年間の放浪を課されます。

写真は、ヨルダン渓谷の東にあるネボ山の山頂。
モーゼが杖を蛇に変えた逸話からイメージされた碑があり、ここから、死海とその先にあるエルサレムを見ることができます。

40年間、シナイ半島の荒野を彷徨ったモーゼは、
ここで民に『約束の地カナン』を示し、120歳で息を引きとったと言われています。


この辺りには、『アイン・ムーサ』と呼ばれる地名がいくつか存在します。
アインとは、アラビア語で泉という意味で、『アイン・ムーサ』は、『モーゼの泉』という意味になります。
イスラエルの民が、荒野で水に窮した際、モーゼは神託を受け、岩を杖で打ちました。
しかし、何も起こらなかった為、もう一度、岩を打つと、そこから水が湧き出したと言われています。

ところが、二度、岩を打つという行為は、神への疑念にあたるとされ、神はモーゼが『約束の地カナン』に入ることを許さなかったのです。
これらの泉は、現在でも、荒野を潤し続けています。

ミケランジェロの彫刻や、その他の絵画で、モーゼは角がある姿で表現されています。
ヘブライ語には母音の文字が無く、子音だけで表記する為、読み方によっては別の単語になります。
旧約聖書がラテン語に翻訳される際、『輝く』という単語が『角』と誤訳され、後の芸術作品にまで影響を与えてしまったという訳です。


モーゼ亡き後、イスラエルの民は、後継者のヨシュアに率いられて『約束の地カナン』へ入り、ヨルダン川西岸の街エリコへ侵攻します。
ヨシュアは神の啓示に従い、雄羊の角笛を携えた7人の祭司に『契約の箱』を先導させ、その前後に兵士達を配します。
そして、角笛を吹き鳴らしながら、エリコの城壁を1周させ、これを6日間繰り返させます。
7日目には城壁を7周させ、兵士に『鬨の声』を上げさせると、突然、城壁が崩れ落ち、これにより戦いに勝利します。

テル・アッスルターンこのエリコには、テル・アッスルターンという遺跡があり、なんと紀元前7800年頃の住居跡や円形塔が見つかっています。
さらに、紀元前3000〜2000年頃の城壁跡も残っており、エリコは世界最古の城塞都市と言われています。

ヨシュアのカナン征服は、紀元前13世紀頃で、これより後の時代となります。
おそらく、ヨシュア記にある城壁の逸話は、ここに城塞都市があったことから、創られた物語なのでしょう。

ヨルダン渓谷周辺では、紀元前6000年頃の神像や土器も多数、出土しています。
あまりに古い年代ですが、死海沿岸は世界最低地の海抜マイナス400mにあることから、地質学の鑑定にズレが生じていないか気になります。


その後の戦いに於いても、『契約の箱』は多くの奇跡を起こし、イスラエルの民は『約束の地カナン』への定住を果たします。
ペリシテ人の侵攻の際、『契約の箱』を奪われることもありましたが、ペリシテ人を災厄が襲ったため返還され、
その後、ソロモン王が建設したエルサレム神殿の至聖所に安置されることになります。

しかし、紀元前7世紀頃に執筆された歴代誌を最後に、旧約聖書から『契約の箱』に関する記述は無くなり、文字通り『失われたアーク』となります。

新バビロニアに占領された『バビロン捕囚』の際に押収されたと考えるのが自然ですが、押収品の記録の中に、それらしい物は無かったそうです。
神話や伝説は、史実に創作を加えて創られていることが多々ありますが、エチオピアにもたらされている可能性もあるのでしょうか?


ユダヤ教と、旧約聖書を元にするキリスト教、イスラム教、さらに、その宗派毎に、十の戒律の内容は微妙に異なっています。
十の戒律では安息日を設けることになっていますが、イスラム教は金曜日、ユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日です。
イスラエルでは、商店が閉まっている曜日で、そこが何教徒の居住エリアなのか、わかるんですよ。


ヴァル・ミツヴァ旧約聖書は、キリスト教の新約聖書と区別する為の呼称で、ユダヤ教で聖書はこれだけです。

一つの聖典だと思われがちですが、律法や歴史等、様々な文書を纏めた物となっており、そのうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つを、トーラーと呼びます。

ユダヤ教では、男子は13歳を迎えると、ヴァル・ミツヴァ(戒律の息子)と呼ばれる成人式を行います。
信仰深いユダヤ教徒は、『嘆きの壁』の前でトーラーの巻物を読み、親族が雄羊の角笛を吹き鳴らして式を祝います。
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想いの行き着くところ

契約の箱

写真は、アクスムにある『シオンの聖マリア教会』。
教会は、幾度かの破壊を経て再建されています。
この教会に、『契約の箱』が納められていると言われています。

シオンの聖マリア教会教会の建物内部には、高位の司祭しか入ることができず、
また、『契約の箱』が納められている至聖所には、主教しか入ることができません。

その為、『契約の箱』が本物なのか?
その中に、『十戒』が納められているのかを確認することはできません。

教会の敷地内は、自由に歩くことはできず、寄進をして案内してもらうことになります。
しかし、女人禁制で女性は入ることができません。
その為、全ての人が礼拝できるよう、教会の隣には、『新しいシオンの聖マリア教会』が建てられています。

シオンとは、旧約聖書に登場する『神の都』のことです。
エジプトを脱出したイスラエルの民は、『約束の地カナン』に同じ名前を付けました。
以降、シオンは、エルサレムの街全体、もしくは、エルサレム神殿があった『神殿の丘』を指すようになりました。
つまり、『シオンの聖マリア教会』の名前は、『契約の箱』が安置されていた地、エルサレムに由来しているという訳です。
現在、エルサレム神殿は、西側の外壁『嘆きの壁』を残すのみで、跡地には、イスラム教の第三聖地『岩のドーム』が建っていますが、ここに神殿を再建することがユダヤ教徒の悲願となっています。
こういった回帰運動のことをシオニズムと言います。


フレスコ画イコン写真は、『新しいシオンの聖マリア教会』にある、なめし皮に描かれたフレスコ画イコンです。

メネリク1世が、大天使ミカエルとガブリエルを伴い、『契約の箱』をエルサレムから持ち去る場面が描かれています。

シバの女王マケダがエルサレムを去る際、ソロモン王は我が子の証にと、王の印の指輪を渡しています。
この一連のクエストでは、これが、アラビアンナイトでも有名な『ソロモンの指輪』とされ、発見物にもなっています。
この後の愛憎劇は、ソロモン王とシバの女王を扱った映画が元になっているようですが、実際は、そのような逸話はありません。


マケダは、エルサレムからの帰路、メネリク1世を出産します。
成長したメネリク1世は、ソロモン王に謁見する為、エルサレムに来訪しますが、住民がソロモン王と間違える程、父親に酷似していたと言います。

ソロモン王は、メネリク1世を3年間滞在させて帝王学を授け、エルサレムを去る際には、家臣の長男から優秀な1000人を付き従わせました。
その1000人の中にいた高僧の長男が、大天使ミカエルから啓示を受け、『契約の箱』をエルサレムから持ち出します。
メネリク1世がこのことを知ったのは、エルサレムを遠く離れてからのことでした。

マケダがメネリク1世を身篭った夜、ソロモン王は、太陽がエルサレムからエチオピアに移動する夢を見たそうです。
『契約の箱』が持出されたのを知ったソロモン王は、早馬でエジプトまで追掛けますが、この夢を思い出し断念したと言います。
(このクエストの前提に、『ソロモンの見た夢』というクエストがあるのですが、夢の内容について語られていなかったのが残念でした。)


エチオピアでは全ての教会に、タボットと呼ばれる『契約の箱』のレプリカがあります。
これも普段は、その教会の司祭しか見ることはできませんが、エチオピアン・クリスマスや、トゥムカット祭(公現日)、ヘダル・ツィオン(契約の箱がもたらされた事を祝う日)には、教会の外に持出され一般公開されます。

旧約聖書の出エジプト記によると、モーゼは神から次のような言葉を授かっています。
『アカシア材で、縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマの箱を作りなさい。
4隅に脚と環を付け、担ぐための棒をアカシア材で作り、これを環に通し固定しなさい。
これら全てを金で覆い装飾し、これに、十の戒律を刻んだ石版を納めなさい。』

(アンマとは、旧約聖書で使われている単位で、1アンマ=45cmだそうです。ノアの箱舟の寸法もアンマで表記されています。)
エチオピアン・クリスマスに、タボットを見ることができましたが、出エジプト記とは違い、上のフレスコ画イコンのように、布で覆われ、頭上に担いで運ばれていました。


エチオピアン・クリスマスは、西暦では1月7日なのですが、エチオピア暦では4月29日。
エチオピアでは、独自の暦が仕様されていて、西暦と比べ7年8ヶ月程遅れています。
1年は13ヶ月あり、1〜12月までは1ヶ月は30日。残りの5日(うるう年は6日)が13月になります。
さらに独自の12時制が採用されていて、通常の24時制の6時と18時が起点となっています。
例えば通常の21時は、エチオピアでは夜の3時となる訳です。ややこしい…。
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