01.Nov.2009
写真は、オールド・カイロ地区。
イスラムの英雄サラディンの建設した城塞からの眺望です。
ここには、ナポレオンの占領の混乱に乗じ、オスマン朝から独立した、ムハンマド・アリの霊廟も建てられています。
ムハンマド・アリ廟は、イスタンブールの
ブルーモスクを参考にして建設されており、
世界遺産に登録されているオールド・カイロ地区の中でも、最も美しい建造物です。
(エジプトのナイル沿岸は稲作が盛んですが、収穫後に焼畑を行う習慣があり、秋には写真のように空が煙で覆われます。)
カイロは、古代エジプトの都だったと思われがちですが、
ピラミッドが建設された古王国時代の首都は、ギザより30km程南のメンフィスにありました。
ここに都市が建設されたのは、イスラム帝国時代の7世紀中頃。
イスラム帝国は、東ローマ帝国に対抗し、
現在のカイロ市街の南端、フスタートに軍事都市を築きました。
その後、北アフリカで興ったイスラム教シーア派のファーティマ朝に征服され、
ファーティマ朝は、フスタートの北に、エジプトの州都ミスル・イル・カーヘラ(アラビア語で『勝利の街』の意)を建設します。
このカーヘラをイタリア語読みしたことが、カイロの語源になったと言われています。
サラディンの興したスンナ派政権のアイユーブ朝では、カイロは首都となり、また、スンナ派の中心地となりました。
そして、アイユーブ朝に続くマルムーク朝の時代には、モンスーンを利用したインドとの交易によって、繁栄を極めます。
その後、オスマン朝に併合されることになりますが、GVOのイスパニアのイベントでは、
この式典がアレクサンドリアで行なわれ、参列するバルバロス・ハイレディンを狙撃するというシナリオがありましたね。
14世紀に流行したペストで、人口が激減したそうですが、
現在、カイロは、中東およびアフリカ大陸において、最も人口の多い街となっています。
人口もさることながら、喧騒の凄まじさにおいても一番かもしれません。
騒音のせいか、エジプトは難聴の人が多く声が大きいのですが、それがさらに喧騒に拍車をかけています。
カイロは、大きくなるにつれ、北へ北へと増築され、街の北側が新市街となっています。
逆に、カイロ発祥の地であるフスタートは、廃墟が残るのみ。
サラディンの侵攻の際、占領後にフスタートの施設を利用され、要塞化されることを恐れたファーティマ朝が自ら破壊し、現在に至るまで、その姿を留めているのです。